ドイツのバンド・Embryoが1979年から1980年にかけて、アフガニスタンやモロッコ、エジプト、ギリシャで、現地のアーティストたちと共におこなった録音である。最近になって当時の音源が発見され、2024年にレコード化された。

様々な都市の中でも、アフガニスタン・カブールでの演奏が全7曲中の4曲を占めている。カブールでのレコーディングを行うにあたって、1979年は最後のチャンスだったのではないかと思う。なぜならアフガニスタンでは、1979年の12月にアフガン戦争が始まっており、それから1989年までずっと続いていたからである。ソ連軍と、アメリカが支援する現地の反政府勢力・ムジャヒディンとの衝突は、1945年から続く冷戦の構造そのものだった。西側の大国による代理戦争の舞台となったアフガニスタンは、それから2025年の今までずっと、混乱のさなかにある。このレコードに収録されている録音はどの国でのものも素晴らしいが、ここでは特にアフガニスタンでの録音について書きたい。

付属の解説によると、アフガニスタン・カブールでの録音について「Embryoのメンバーと現地のカブール・ラジオ・オーケストラが、 3週間もの間、1日6時間のセッションをした上で録音したもの」とある。カブール・ラジオ・オーケストラとは、現地のラジオ局に雇われていたバンドだ。当時のラジオ局には録音したものを再生する技術がなかったため、放送中に使用するジングルやBGMは彼らが全て生演奏をしていたのだという。

度重なるセッションを経た演奏は、ジャズのリズムと現地の民族楽器の音色が絶妙に混ざり合った、独特なものになっている。アフガニスタンを取り囲む砂漠や雄大な自然の、荒々しくも繊細な情景が目に浮かぶ。殺伐としながらも、エモーショナルだ。

アフガニスタンと言われて個人的に思い出すのは、2012年に10ヶ月の間、大学を休学してバックパック旅行をおこなった時のことである。当時の私は若気のいたりから「飛行機にさえ乗ればどこへでも簡単に行けてしまう現代で、ただの観光旅行をしているくせに、さも偉大なことを成し遂げて”本当の自由”を手にしたかのような幻想のイメージをばら撒く、いわゆる”バックパッカー”たち」を醜悪と決めつけていた。そして安直にも「この旅行では、飛行機を使わない」と決めた。船で上海にたどり着いた後、電車やバス、時にはヒッチハイクを駆使し、一ヶ月ほどをかけて中国を横断した。中央アジアの国・キルギスにたどりついた時、そんな自分の滑稽なまでの完璧主義が頂点に達し「もっと地を這うように、プリミティブな方法で旅行してみたい」と考えるようになった。そうして、キルギスのオシュという街の市場で自転車を購入し、テントと寝袋、食料を買い込んで、自転車の旅をすることにしたのである。

オシュから数日かけてタジキスタンへ入国し、タジキスタンとアフガニスタンの国境をなぞるワハン回廊を自転車で走った。数百キロの行程だったと思う。標高4,000mを越える渓谷地帯で25kgほどある荷物を荷台にくくりつけて、とにかく自転車を漕いだ。晴れ渡る渓谷の間に横たわる川の向こう側にそびえるのはアフガニスタンの山々であり、時おり民族衣装の現地住民たちが列をなして歩いてゆく姿が米つぶほどの大きさで確認できた。当時の私にとってアフガニスタンとは「怖い人たちに支配されている、とにかく危険な国」であり、そういった国であっても生活を営んでいる人々がいる、という当たり前の事実が、その時の自分には不思議に思われた。渓谷の道が谷を降りて河岸に近づくと路面はサラサラの砂になって、とても自転車が走れるような状況ではなく、自転車と荷物を無理やりに押して歩いた。急な登り坂でもやはり自転車は漕げず、泣きながら自転車を押した。やっと登りきって坂道を降りていくと、今度は岩でゴツゴツとした路面の衝撃で、後輪がパンクした。ほとんど苦行のような旅だった。日が暮れてテントを張り「もうこのまま自分は死んでしまうんじゃないか」とカバンから取り出したパサパサのパンをかじりながら夜空を眺めると、そこには見たこともない量の星が光っていて、その時だけは全てを忘れることができた。その翌朝、リンリンというベルの音と共に目を覚ますと、高原に張ったテントは何百匹もの山羊に囲まれていた。真っ黒に日焼けした、中東系にもアジア系にも見える顔立ちの少年が、よくしなる長い木の棒をムチ代わりにして山羊を追いかけてゆき、私は人生で初めて、山羊の大群に「通過」された。

パンクした自転車を押しながら山道を歩いていると、どこから現れたのか、子ども達がだんだんと自分の周りを囲い始めて「村にきたらタイヤをなおしてあげるよ」と教えてくれた。15名ほどに膨れあがった子どもたちの大群を連れた私は、まるで「ハーメルンの笛吹き男」にでもなったかのような気分だった。村に着いてパンクを直してもらい、子どもたちにお礼として非常用のチョコレートを分け与えていると、その村に住むおじいさんとおばあさんが私を一晩泊めてくれるという。その時は心も身体も疲れ果てていて、すぐにでもその優しさに甘えたかったが、実際のところ恐怖もあった。タジキスタンの山奥で、子どもたちに連れて行かれた小さな村である。何かがあった時に逃げ場は無い。身ぐるみを剥がされてでも、生きて帰してもらえるのであればまだいいが、その保証すらない。そんな自分の恐怖とは裏腹に、おばあさんは温かい食事を作ってくれ、フカフカの布団で寝かせてくれた。翌朝、どういう流れでそうなったのかは全く記憶にないが、おじいさんが現地の楽器を弾きはじめた。今になって改めて調べてみると、セタル、という楽器だったようである。やや早いテンポで繰り返されるびょんびょんとした音の反復が心地よかった。それを聴きながら、私とおばあさんは踊った。私たちには共通の言語が無く、それまではお互いが少しずつ分かるロシア語でわずかばかりのコミュニケーションをとっていたが、音楽が鳴ると世界は一変した。みんなでゲラゲラと笑いながら、両手をひらひらと上げては下げ、くるくると回った。私はなんだかとても良い気分で、疑り深い自分のことを褒めながら、また、厚意を素直に受け取れない自分のことを少しだけ軽蔑もしながら、その村を後にしたのだった。

本題に戻りたい。

レコードの解説としてわかりやすく述べるならば「このレコードに録音されているのはジャズのリズムと民族楽器のコラボレーションである」と、ひとまずは言えるかもしれない。でも、それ以外にもある。とびきりカッコつけて、あるいは陳腐な表現になることを恐れずに、あえて当たり前のことを大きな声で言わせてもらうならば「このレコードにはコミュニケーションが録音されている!」それはもちろん、Embryoのメンバーとカブール・ラジオ・オーケストラのメンバーが3週間をかけてとった、音楽的なコミュニケーションのことである。そしてさらには、もっと日常的で、よそよそしく、かつ親密な、広い意味での人間と人間とのコミュニケーションのことでもある。政治家たちが勝手に決めた世界の大きな流れの中で、迫りくる戦争の影を感じながら、全く違ったバックグランドを持つ他者同士が出会った。そして、それぞれの音楽を通じてお互いの精神を分かち合った。その結果が録音されている。他者との出会いは、いつだって怖いものだ。考え方や感情の動き方、信じているものが異なれば、人は簡単に差別をし、暴力を振るう。それでも「(他者とのコミュニケーションの)その先にあるかもしれない音楽的なきらめき」を求めて、衝突を恐れることなく、彼らが互いに心と身体を開きあったことは、勇敢なことだ。

Embryoとカブール・ラジオ・オーケストラの演奏は運良く録音されて現代まで保存されていた。それに対して、私がタジキスタンの山の中でおじいさんやおばあさんと分かち合ったあの音楽は、残念なことに、もう残ってはいない。でもあの時のあの音楽は、実は今もどこかで鳴っているんじゃないだろうか。このレコードを聴いて、色んな思い出をなぞっていくと、なんだかそんな気がしてくるのである。音や場所という物質的なもの、あるいは時間や意識、記憶のような形のないものをも軽々と飛び越えて、あの時の音楽は今も絶対に、どこかでびょんびょんと鳴っている。星はチラチラときらめいて、少年は山羊を追いかけ回しており、子どもたちは旅人の自転車を修理している。おばあさんは爆笑しながら、くるくると回っている!

私はこのレコードを聴きながらこっそりと、今もまだ続いているであろうワハン回廊の人々の生活にも耳を澄ませてみたりした。(Koki)

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